「いい年して、まだそんなことやってるの?」
「もう、いいかげん引退したら?」
そんな声が、どこからともなく聞こえてきたら、
私は、たぶんこう答える。
「いいえ、まだまだこれからです!」
私はこれまで、ずいぶん長い間、「人のため」に生きてきたように思う。
子どものため。
家族のため。
仕事で出会う人のため。
講座に来てくださる人のため。
どうしたら、この人が楽になるだろう。
どうしたら、人生が変わるだろう。
何を伝えたら、役に立つだろう。
そんなことを考えて、学んで、研究して、仕事にしてきた。
それはそれで、私の大切な人生だったし、幸せを感じていた。
でも、64歳になり、
もう少し「私」のことを考えてもいいんじゃない?と思うようになった。
すると、
今までの仕事のやり方に、違和感を覚えるようになった。
過去、それなりに、いくつかの成功体験がある。
子どもたちも巣立ち、自立した。
ものすごく、ほっとした。
お金と時間に余裕のある、20代のような生活。
そんな矢先…。
「私は、何がしたい?」
「どこへ行きたい?」
「何を見たい?」
「本当は何が欲しい?」
そんなふうに、自分に聞いてみたくなった。
若い頃の私は、「私を見て!」とすごく思っていた。
まるでアイドルのように、
「私を見てほしい!」「注目してほしい!」と思っていた。
それらがもらえないと、
まるで全世界から否定されたかのように絶望を感じていた。
「私を見て」という正直な思いは、
決してダメなものでも、幼いものでもない。
「私を見つけて」
「私を認めて」
「私を好きになって」
いくつになってもこの思いは消えない。
いろいろ超えてきて、経験してきて、
今の私の「私を見て!」は、ちょっと違うように感じる。
「私は、こんなふうに生きているよ。」
「私は、これからこんなことをやってみるよ。」
「64歳になったけど、まだまだ知らないことがいっぱいあるよ。」
「こんなところへ行ってみたい。」
「こんなものが欲しい。」
「こんなことを考えている。」
「こんなふうに人生が変わってきた。」
そんな私を、ちょっと見ていてほしい。
そして、もし私を見ているうちに、
「私も何かやってみようかな」と思ったり、
「私も、もう少し自分の好きなものを大事にしてみよう」と思ったり、
「この年齢でも、まだ変わっていいんだ」と安心したり、
そんなことが起きたら、それでいい。
私はもう、最初から
「誰かのために役立つもの」を作ろうとしなくてもいいのかもしれない。
私は、長い間、助手席に乗っていた
私は車が好き。
そして運転することが大好き。
今までいろんな方の人生を聞いてきたけれど、
車の選び方にも、その人の人生がそのまま表れていると思う。
昔の私は、助手席に乗っていた。
運転する人が行きたいところに合わせる。
運転する人が選んだ車に乗る。
「これがいいんじゃない?」と言われれば、
「そうだね」と、邪魔せず合わせて横に乗る。
自分で運転することが嫌だったわけではない。
でも、いつの間にか、
「私はどこへ行きたいんだろう?」より、
「この人はどこへ行きたいんだろう?」
「それについていった方がラクだし、私を楽しませてくれるかも」
と思っていた。
でも本当は、自分でハンドルを握りたかった。
数十年がたった。
その間、いろんなことがあった。
そして、私はひとりで生きられるようになった。
ある日、急に思い立って、
自分が本当に欲しい車を、自分のためだけに、新車で買った。
嬉しかった。
ものすごく嬉しかった。
ただ、少し大きくて、最初は戸惑った。
本当はもっと欲しい色があった。
でも、その色にすると5万円高かった。
「まあ、こっちでいいか」と妥協した。
5万円。
その妥協を、私は車に乗るたび、ずっと後悔していた。
「本当は、あの色が欲しかった。」
今思えば、あの5万円のことだけではなかったのだと思う。
「本当に欲しいものを、自分のために選ぶ」
ということを、
私はまだ自分に十分、許していなかったのかもしれない。
一度でいいから、外車に乗ってみたい
その後、
「人生で一度くらい、外車に乗ってみたい」と思うようになった。
でも、何に乗りたいのかは、まったくわからなかった。
きっかけは父の言葉だった。
「真美もいつか、颯爽と、
アウディーとかベンツに乗って来る日がくるかもなーと、
お母さんとよく話してる」と。
父を喜ばせたいと思った。
同時に、私の願いも同じ量、プラスされていた。
外車といっても、いろいろある。
雑誌を見たり、街を走っている車を見たり。
でも、「これ」というものが見つからない。
それでも、なぜか諦めなかった。
そんなある日、イオンに買い物に行った。
そこで車が展示されていた。
展示場に置いてあったチラシを、何気なく見た。
そこに載っていた車を見て、「これだ」と思った。
理由はうまく説明できない。
でも、「これだ」と思った。
翌日、試乗しに行った。
実際に乗ってみる。
そして、エンジン音を背中で感じた瞬間、「これだ!」と思った。
私は、その車に7年乗った。
本当にお気に入りだった。
好きだったものにも、卒業の時が来る
ところが、ある時から、少しずつ違和感を感じるようになった。
嫌いになったわけではない。
むしろ、好きだった。
でも、なんとなく
「そろそろ卒業かな?」と思うようになった。
不思議なものだ。
あんなに欲しくて、やっと見つけた車なのに。
7年も一緒にいて、たくさんの思い出があるのに。
それでも、「次」を考えるようになる。
だからといって、すぐ次の車を探したわけではない。
乗りたい車が、見つからなかったから、
無理に探さなかった。
そして、ある日のこと。
近所のスーパーでの買い物の帰りだった。
信号待ちで止まっていたら、向かいに一台の車がいた。
その車を見た瞬間、「これだ」と思った。
まただ。
私は、その車を探していたわけではない。
でも、見た瞬間にわかった。
数日後、思い立って近所のディーラーに行ってみた。
すると、ちょうど私が望んでいた条件にぴったりの車が、
最近入ったばかりだという。
まるで、「はい、どうぞ」と差し出されたように、そこにあった。
家を買った時も、同じようなことがあった。
私は、試乗もせず即決した。
2代目の外車だった。
大きくて、たくましい。
まるで、頼もしい彼氏みたいな車。
私は、この車に母を乗せて、あちこちドライブした。
母も「いい車だね~」と、すごく喜んでくれた。
自分が欲しくて選んだものが、結果的に誰かの喜びにもなった。
それが心から嬉しかった。
本当に欲しいものが見つかると、浮気心は出てこない
私は、車を通して、ひとつのことを知った。
人は、本当に欲しいものが見つかった時、
浮気心は1ミリも出てこない。
「あっちもいいな」
「こっちもいいな」
と、あれこれ迷うことが一切ない。
「これだ」と思ったら、それでいい。
もちろん、人生のすべてが車のように簡単に選べるわけではない。
でも、
自分が本当に欲しいものを知ること。
自分が何を大切にしたいのかを知ること。
これは、人生のいろいろな場面で、とても大事なことなのだと思う。
私は、こうやっていつも、
自分の欲しいものを見つけ、それを手に入れてきた。
時間がかかることもあった。
最初からわからないこともあった。
妥協して後悔したこともあった。
でも、あきらめず探していた。
そして、
「これだ」と思ったものに出会ったら、迷わなかった。
古いものを手放さないと、次が見えてこない
人生には、車だけではなく、いろいろな「卒業」がある。
古い考え方。
もう役に立たなくなった価値観。
過去には必要だったけれど、今の自分には合わなくなったやり方。
人間関係もそうだと思う。
ずっと一緒にいることが、「大切にすること」だとは限らない。
自分を苦しくする関係なら、距離を置いたほうがいいこともある。
昔の自分には必要だった考え方が、今の自分にはもう必要ないこともある。
仕事だってそう。
過去に成功した方法が、これからもずっと通用するとは限らない。
むしろ、過去にうまくいったからこそ、手放すのが難しい。
「これで成功したんだから」
「これでずっとやってきたんだから」
「これを捨てたら、今までの自分は何だったんだろう」
そう思う。
怖い。
とても怖い。
でも、手放さないと、次が見えてこない。
過去の成功体験を、手放す
AIがものすごい勢いで進化している。
これからも、AIはもっと変わっていく。
だから、AIの使い方は学び続けなければならないと思う。
新しい道具が出てきたら、それを知る。
便利なものがあれば使う。
知らないことはAIに聞いてみる。
それは、これからの時代には必要なことだと思う。
でも、AIに任せられないことがある。
それは、「私は、これからどう生きたいのか」を決めること。
過去の成功体験を手放すのか。
新しいやり方を試すのか。
今までの自分を少し壊してみるのか。
何を選ぶのか。
どこへ行くのか。
これは、自分で考えるしかない。
AIに答えを出してもらって、それをそのまま採用するのではなく、
「本当にそうかな?」と、自分で考える。
調べる。確かめる。
自分の目で見る。
自分で経験してみる。
それが必要だと思う。
ナビは間違える
車にはナビがある。
知らない場所へ行く時には、とても便利だ。
目的地を入力すれば、道を教えてくれる。
「次の交差点を右です」
「この先、左です」
と教えてくれる。
でも、ナビは間違えることがある。
道が変わっていることもある。
工事をしていることもある。
「本当にこっち?」
と思うような道を案内されることもある。
だから私は、ナビが言ったからといって、
何でもそのまま信じるわけではない。
自分で周りを見る。
地図を見る。
「こっちで合っているかな?」と確かめる。
自分で考える。自分の感覚を信頼する。
AIも同じだと思う。
AIは、とても優秀なナビになる。
知らないことを教えてくれる。
考える材料をくれる。
自分では思いつかなかった視点を見せてくれる。
文章を書くことも手伝ってくれる。
でも、ナビは私の人生の行き先を決めてくれない。
AIが、「こちらがおすすめです」と言ったとしても、
「私は本当に、そっちへ行きたいの?」と考えるのは、自分だ。
ナビは使う。
AIも使う。
人の知恵も借りる。
本も読む。
いろいろな人の話を聞く。
でも、行きたい場所を決め、ハンドルを握り、そこまで運転するのは、自分。
助手席から見える景色と、運転席から見える景色は違う
誰かが運転してくれる車の助手席に座っているのは、楽だ。
目的地も自分で決めなくていい。
道を間違えても、自分の責任ではない。
疲れたら、「ちょっと休んで」と言える。
でも、自分で運転すると違う。
間違える。迷う。遠回りする。
時には道を間違えて、引き返す。
「あっちじゃなかった」と気づくこともある。
時間もかかる。険しい道を走ることもある。
でも、運転席から見る景色は、助手席から見る景色とはまったく違う。
自分で道を選んでいるからだ。
「あ、こんなところにこんな景色があったんだ」と気づくこともある。
予定にはなかった場所に立ち寄ることもある。
道を間違えたからこそ、見つけるものもある。
人生も、たぶん同じなのだと思う。
最初は、少し寂しい
自分で人生を運転し始めると、最初は少し寂しいかもしれない。
今まで誰かと一緒だったなら、なおさらだ。
「一人で行って、何が楽しいんだろう」と思うかもしれない。
でも、一人で行ってみる。
自分が行きたいところへ、自分で決めて行ってみる。
自分の好きな景色を見る。
自分の好きな店に入る。
自分の好きなものを食べる。
自分の好きな音楽を聴く。
そうしているうちに、
「あれ。一人って、けっこう楽しいな」と思うようになる。
誰かが楽しませてくれなくても、自分で自分を楽しませることができる。
これは、とても大きいことだと思う。
そして、その先に、
「誰かと一緒に楽しむ」がある。
自分一人でも幸せだから、
誰かに幸せにしてもらおうとしなくていい。
相手に何かを返してもらおうとしなくていい。
「私がこれだけしているんだから、あなたも」
という気持ちにならなくていい。
ただ、
「この人にも、この楽しさを味わってほしいな」と自然に思える。
相手が喜んでくれたら、「嬉しいな」と思う。
それだけでいい。
自分を満たすために誰かを必要とするのではなく、
自分で自分を喜ばせられる人が、誰かと喜びを分かち合う。
私は、そんなふうになっていきたい。
これからは、もっと私のことを書こうと思う
最近、ある方の本を読んだ。
過去の成功体験を手放すこと。
そして、成功してからの話だけではなく、
そこへ向かっている途中のことを書くこと。
その考え方に、とても共鳴した。
私は今まで、発信するとき、
「読者は何を欲しがっているだろう」
「どんな悩みを解決してあげたらいいだろう」
と考えることが多かった。
それはマーケティングとしては、間違っていない。
お客さんの欲しいものを考える。
相手の目線に立つ。
必要なものを届ける。
長い間、そうしてきた。
でも、ふと思った。
私はもう、十分やったんじゃないか……?
人のために。
誰かの役に立つために。
誰かを助けるために。
誰かを変えるために。
誰かの人生を良くするために。
これからは、
もう少し私のことを書いてもいいんじゃないか……?
私が何を考えているのか。
何に心が動いたのか。
何を欲しいと思ったのか。
何を買ったのか。
どこへ行ったのか。
何を学んでいるのか。
何に失敗したのか。
何を手放したのか。
これから何をやってみたいのか。
成功した後の話ではなく、その途中を書く。
まだ答えが出ていないことも書く。
迷っていることも書く。
やってみたけれど違ったことも書く。
そして、また別の道を探す。
それでいい。
「私を見て!」を、今の私が叶えてあげる
若い頃の私は、「私を見て!」とすごく思っていた。
もっと認めてほしい。
もっとわかってほしい。
もっと私を見てほしい。
でも、今は少し違う。
私はもう、自分で自分を見ることができる。
自分が何を感じているのか。
何が欲しいのか。
何が嫌なのか。
どこへ行きたいのか。
少しずつ、わかるようになってきた。
だから今度は、
今の私から「私を見て!」と言ってみたい。
64歳の私を。
英語を勉強し始めた私を。
英語スピーチに挑戦しようとしている私を。
海外に広めたいと思っている私を。
知らない世界を見たいと思っている私を。
新しい仕事を考えている私を。
AIを使いながら、それでも自分で考えようとしている私を。
チェロを弾いている私を。
好きな車に乗っている私を。
一人で出かけて楽しんでいる私を。
そして、これから何をするのか、自分でもまだわからない私を。
私は、これからも運転する
人生の中では、出会いと別れがある。
人との出会い。
人との別れ。
仕事との出会い。
仕事との別れ。
考え方との出会い。
考え方との別れ。
お気に入りのものとの出会い。
そして、卒業。
そのたびに、少し怖くなる。
手放したら、何もなくなるんじゃないかと思う。
次が見つからなかったら、どうしようと思う。
でも、ずっと握りしめていたら、新しいものを持つことができない。
だから、時には手放す。
「ありがとう」と言って、卒業する。
そして、また探す。
すぐには見つからないかもしれない。
遠回りするかもしれない。
間違えるかもしれない。
ナビだって間違える。
だから、自分で確かめる。
自分で考える。
自分で運転する。
私は、これからもそうしていきたい。
「いい年して、もういいかげん引退したら?」
もし、そんな声が聞こえてきたら、
私は、笑ってこう言うと思う。
「いいえ、まだまだです!」
「私の人生は、これからです!」と。
私は、まだ行きたいところがある。
まだ見たい景色がある。
まだ欲しいものがある。
まだ知らないことがある。
まだやってみたいことがある。
そして、何より
自分の人生を、自分で運転するのが、面白くなってきた。
だから、もう一度言ってみよう。
私を見て!
今度は、64歳の私の生き方を。
まだ挑戦する。
まだ欲しいものを探す。
まだ知らない世界へ行く。
どこへ行くのか。
何を見つけるのか。
何を手放し、何を選ぶのか。
これから、どう生きるのかを見ていてほしい。
私自身も、まだわからない。
だから、面白い。
もし、私を見ているうちに、
「私も、自分の行きたいところへ行ってみようかな」と思ったら、
あなたも、自分の車の運転席に座ってみてほしい。
ナビは使っていい。
誰かに道を聞いてもいい。
AIに相談してもいい。
でも、ハンドルはあなたが握る。
間違えてもいい。
遠回りしてもいい。
引き返してもいい。
その席から見える景色は、
きっと、今までとはまったく違うから……。
私の人生を生きる
自分で運転して、
自分で行きたいところを選んで、
自分が乗せたい人を乗せて。
間違えてもいい。
遠回りしてもいい。
途中で引き返してもいい。
それでも、自分の人生を、自分で運転する。
「人のために生きる」から「自分のためだけに生きる」へ行くのではない。
自分で行き先を選べるようになったからこそ、誰を乗せるかも自分で選べる。
まだ行きたいところがある。
まだ見たい景色がある。
だから私は、これからもハンドルを握って、自分の人生を走っていく。
さて、次はどこへ行こうかな。


この写真の先生は、美しさも遊び心も兼ね備えてとっても楽しそうー!!!